いままで静かだった横浜極東署内が、突然さわがしくなったのは、午後の二時をまわったころだった。
時間的にはいちばん眠いころあいで、瀬谷康介もその例にもれず、窓際の課長席でうつらうつらと舟を漕ぐ一歩てまえというときだった。
知能犯捜査係のふたりの刑事に挟まれた格好で刑事一課に入ってきたのは、一見、犯罪とは縁もゆかりもなさそうな、四十代後半の男性である。
実際、なかなか仕立てのよさそうな紺色のスーツを着こなしている姿に、きちんと整髪された頭髪は、瀬谷がみても身持ちの堅い職業のようにみえた。
それなのにもかかわらず、刑事たちは、迷うことなくこの男を取調室へと連れていった。
つまり、この男はなにかしら犯罪をしたと疑われる対象、被疑者なのである。
「田所聖司を任意同行しました」
最後に部屋に入ってきた、知能犯捜査係長の尾上拓郎警部補は、瀬谷の机のまえに来るなりそう報告した。
尾上は瀬谷よりも一回り若い四十代前半くらいの年齢で、警察官にしてはかなり小柄なほうである。
だからか、一見ひ弱そうにみえるのだが、その眼つきは人一倍するどく、相手の考えを見抜くように光っていた。
刑事という職業柄でもあるが、知能犯を相手にしなくてはならないということもあるのだろう。
終始、なにかにつけて神経を尖らせている。
そんな感じだった。
瀬谷はひとまず、ごくろうさまとねぎらいの言葉をかけると、さっそくことの成り行きを聞こうと耳をかたむけた。
今朝方、横浜極東署に一本の電話がかかってきた。
かけてきた主は、海老沢ウメという八十八歳の女性である。
ウメは資産家で、田所聖司の勤務する、みずな銀行A支店のお得意さまだった。
足が不自由でひとり暮らしというので、お金を下ろしたり、預け入れるのも、わざわざ田所がウメの家に出向くほどで、だが逆にそういった環境だったからこそ、起きた犯罪ともいえた。
「しかし、見た目は普通の銀行員って感じなのに、なにが楽しくて客の金を、百万も着服したんだか」
瀬谷は思わず出そうになる、あくびをかみ殺した。
「いまのところ、被疑者はウメに貰ったと完全否認していますが、完落ちするのも時間の問題かと思われます」
尾上は取調室のほうに鋭い眼をむけていった。
「証拠があるのか?」
「ええ。海老沢ウメはおかしいと気づいたときから、隠しカメラをセットしていたようです」
「ほう。なるほど。さすがは資産家だな。やることに金がかかっている」
そういうわりにはべつに表情を変えず、瀬谷は淡々といってのけた。
「いま鑑識がそのビデオテープを調べていますが、どうやら田所の着服の犯行のすべてが、ばっちりと映っているということです」
尾上がいうには、その映像には、ウメが預け入れのために手渡した二十万から、すばやい手つきでそれとなく二万ないし三万を抜き取り、自分の懐におさめるところが映っていたらしい。
「そしていけしゃあしゃあと、数えたら足りなかったという感じで、自分が抜いたはずの二、三万を補填するために、ウメに催促する映像も映っていたらしいです」
「まったく、相手が老人だからって、なめてかかったもんだな」
「ウメも、もうかなりの歳で物忘れがそうとう激しいらしく、最初は銀行員のいうことはほんとうに正しくて、自分の数え方が間違っていたと思っていたみたいですよ」
「まさか誠実そうな銀行員が、といったとことだろうな。その銀行員が、善人の仮面を完璧にかぶって、裏では年寄りから金を巻き上げているだなんて、誰だって思ってもみないだろう」
「ウメもそうとう歳らしく、私がみたところでも少しボケが入っているように受けとれました。だから、田所もわからないだろうと高をくくって、ああいった大それたことをしたのだと思いますね」
「しかし、毎度毎度、同じ手口で催促していたら、たとえ少しボケていたって、相手に気づかれるだろうに。まったく何を考えているんだか」
「犯罪者は得てして、何を考えているのかわからないものですよ。とくに善人の仮面のしたではね」
そういうと尾上は、はじめて穏やかな顔つきになってニコリとした。
「なるほど。たしかに、な」
瀬谷もつられて笑った。
その後、田所聖司は完落ちした。
罪状を認めたのである。
が、それでこの事件は解決したかにみえたが、ほどなくして意外な事件が起きた。
とうの海老沢ウメが何者かに殺されてしまったのだ。
鋭利の刃物による刺殺で、殺傷痕はいくつもついていたらしい。
臨場要請を依頼した神奈川県警の捜査一課によって、恨みによる犯行と断定され、横浜極東署内には一気に緊迫した空気が流れたかのようにみえた。
けれども、やってきたのは捜査一課の課長代理、葉村陽一郎と、あとは三十代半ばの刑事、ひとりきりだった。
とても特別捜査本部が設置できる人数ではない。
瀬谷は怪訝ながらも席から立ちあがると、あわてて葉村に近づいた。
国家公務員Ⅰ種試験合格のキャリアで、警察庁から神奈川県警に出向してきた葉村は、警部の瀬谷よりもひとつ上の階級の警視である。
今年で三十歳になる葉村とは、大きな事件が起きるたびに、かならず顔を合わせる、いわば顔なじみだった。
そのわりにはいつも愛想のかけらもなく、きまって他人行儀な態度をとるが、自分の息子ほどの歳の葉村と顔を合わせることは、いまでは瀬谷なりにひとつの楽しみになっていた。
いつものように挨拶もそこそこにすませると、葉村はいきなり用件をきりだした。
が、しかし、葉村から出たのは、意外な言葉だった。
「事件はどうやら解決したようです」
いつもながらの仮面のようなポーカーフェイスで、そういってのけた。
「はあ?」
瀬谷は思わず素っ頓狂な声をだした。
それで葉村は、初めてうっすらと笑みをうかべた。
「じつは海老沢ウメが三年前に住んでいた静岡県の浜松南署の管轄地域で、今回の田所聖司のような事件が起きていたらしいんです。つまり、川原慎也という銀行員が、ウメの貯金を着服した容疑で逮捕されているんです」
「なんだって──!」
驚きのあまり、葉村の顔を凝視すると、瀬谷はたしかめるように問いただした。
「三年前に、ウメが銀行員に貯金を着服されていた、だと」
瀬谷には寝耳に水だった。
葉村は肯定するようにうなずくと、ゆっくりときりだした。
「ウメの遺体から、川原慎也の指紋と髪の毛が検出されたそうです。そして、とうの川原慎也は、犯行当日から行方不明になっているもようです。いま、懸命に行方を追っていますが、おそらく、川原が今回の事件の被疑者だというのは確定的と思われます」
「ウメに対しての逆恨みか? 三年もたっているんだぞ」
「たぶん、今回の田所の件で、ウメの所在を知ったということも考えられます。ウメはその事件以降、横浜極東署の管轄区域に越したようですから」
「なるほど。しかし、なんでまた、よりによって、海老沢ウメを相手にふたつも着服事件が起きたんだ。それも三年のあいだに、だ。いくらなんでも偶然すぎる」
「たしかに偶然にしては不自然です」
それには葉村も納得できないらして、瀬谷に同調するようにうなずいた。
「不自然というより、もう、ぷんぷんと匂いを放っている。もしかしたら蠅もたかっているかもしれないな」
「たしかに」
瀬谷のいいように葉村は思わず吹きだして、必死で笑いをかみ殺した。
「そういえば田所聖司は、着服については最初はウメに貰ったと自供していたんだっけな」
突如、思いだしたように瀬谷は訊いた。
「ええ。たしかにそうでした」
「って、ことは、案外それが真実ってことにならないか?」
「えっ」
「田所聖司は海老沢ウメにお金を貰っていた。つまり、はめられたってことだ。ということは、イコール、川原もウメにはめられたということになる。ウメを殺したのはその復讐かもしれない」
「それは川原が捕まってみないとわかりませんが、ウメを殺したいほど恨んでいたところをみると、案外そういうこともありうるかもしれません」
葉村は警察庁のエリートらしく、言葉を選びながらうなずいた。
「よくかんがえてみると、ひとり暮らしの八十八歳の老人が、隠しカメラを設置したというのも用意周到すぎる。となると、隠しカメラに映っていたビデオテープの一件も、なにかしら仕組んだってことになるんだろうな。たとえば、その二十万から三万をあげるから、とっておいてね、あとで財布から補填するから、とかなんとか言葉巧みにいったかもしれない。ま、あくまでも俺の推測だが。それでなんの得になるかはさっぱりわからんが、人それぞれ仮面のしたでは何を考えているのかは、結局のところ何もわからないからな。ま、どっちにしろ、海老沢ウメは食わせものの婆さんだということはたしかなようだ。まったく、仮面をかぶっていたのはどっちなんだか──」
〈了〉