ワンナイト・ストーリー

勝手に小説を書いています。

カテゴリ: 鬼火

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「おや?」
湯と書いた古びた暖簾をくぐるなり、高橋正介たかはししょうすけが思わず声をだしたのは他でもなかった。
脱衣場には何者かが脱いだと思われる浴衣が、籠に入れられて一つだけポツンと置いてあったからだ。
普段の時刻なら何ら気にもとめないが、今は真夜中をとうに過ぎ、いわゆる草木も眠る丑三つ時というころあい。
いくら温泉好きだからといって、わざわざこんな時刻に浸かりにくる酔狂な人間はめったにいない。
そう。
とうの正介を除いては──
いつもならこの時刻になると、誰も入っていないということでわざわざ狙って来ていたのだが、今日に限ってはあてが外れたようである。
出直そうかと考えながらも結局、正介は浴衣を脱いだ。
さすがにこの鄙びた温泉宿に三日間、真夜中に独りで温泉に忍んでいくことにも厭き、何となく人恋しくもあったからだ。
脱いだ物を適当に籠に入れると、正介は手ぬぐいを持って引き戸を開けた。


もうもうと立ちこめる湯気をかきわけ、足元を確かめながら洗い場へと向かう。
桶に湯を汲んで体を流しながら、それとなく湯船をみやった。
周りを岩で配した長方形の広々とした湯船には、七十代くらいの歳の男が浸かっていた。
ここからでも、短く刈りこまれた白髪頭の中肉中背ということがうかがえる。
男は正介の視線に気づいたらしく軽く会釈をしてよこした。
正介も慌てて会釈を返すと、男から少し離れたところで、足からゆっくりと温泉につかった。
「まさか人が入ってくるとは思いませんでした」
男は静かな口調でいった。
「ご迷惑でしたか?」
やはり出直せばよかったと思いながら、正介は訊きかえした。
「いいえ。とんでもない。ただこんな時刻に温泉に浸かりにくるのは自分くらいだと思っていたものですから、人が入ってきてびっくりしたといいますか。しかもなかなかお若いし」
若いという言葉に、正介は咄嗟に言い返した。
「若いといっても精神年齢だけで、実際は三十半ばは軽く過ぎていますが」
「いやいや。それでも私からみれば十分にお若いですよ。しかしなぜ今ごろ温泉に、ですか。まあ私が訊くのもなんですが」
「人目を避けているんです」
正介は即答した。
「ほう。なぜですか」
男は何やら興味深げに訊いた。
「実は全身にかぶれを起こしまして」
「かぶれですか? その、痒くなったりとかの」
聞き間違いでもあったかのように男は訊きかえした。
「ええ。そのかぶれです」
正介は恐縮そうに体を縮めると、先を続けた。
「よく椿や桜にいる茶毒蛾の幼虫です。それに刺されたものだから、かぶれが全身に回ってしまって」
「それはまた大変ですね」
そういいつつも男が身をひいたのが正介にはわかった。
男との距離は五メートル近くは離れているのだが、それでもそういった行動をとるということはおそらく感染を恐がってのことだろうと思われた。
正介は慌てて否定した。
「いや、ちょっと言い方が悪かったかもしれません。この温泉に来るはめになったのは、かぶれではなく火傷なんです」
「やけど、ですか?」
男は首をひねって訊きかえした。
正介は照れくさそうにして続けた。
「実は痒くて痒くて夜も寝られないほどで、いっそのこと熱い湯でもかければ少しはよくなるだろうと。そうしたら火傷をしてしまいました」
「それは無茶をなさる」
「おかげで私は友人には笑いとばされるし、身体はひりひりするわで碌な目にあわない。ま、こんな所でのんびりとしていられるのもそれのお陰なんでしょうけど」
正介は屈託のない笑みをこぼしてから頭をかくと、
「ところであなたのほうは一体なぜこんな真夜中に、ですか」
と、今度は逆に訊きかえした。
男はいきなり訊かれて少々、戸惑った様子だったが、
「ちょっと、色々な事があって眠れないものでして」
と、言葉少なにきりかえした。
よくみると、男の眼の下には隈のようなものができている
ここ数日眠れないのか憔悴しているようにみえた。
が、それ以前に男の顔にはどことなく影が差しているようだった。
とてつもなく暗い影が。
だが、それでいて男からは全てを悟りきったかのような落ちついた眼差しもみてとれる。
男は正介に対して何かを切りだそうとしているらしかったが、結局は決心がつかなかったのかそれきり黙りこんだ。
しばしの沈黙のあと、気まずさを隠すように立ちあがって湯からでると、洗い場で体を洗い流してから、正介にお先にといって、出ていってしまった。
何かを話したかったのかもしれないと思いつつも、正介はその後姿を見送るだけだった。


男と再び逢ったのはあくる日のことで、朝食を終えてから海辺を散策しているときだった。
正介は波打ち際に近づくために、静かな歩調で岩を伝って歩いていた。
眼前に広がる海は青かったが、夏とはうってかわって色あせているように感じる。
それは空の色と同様に薄ぼんやりとしているようでもあった。
十月という時期、それも平日ということもあり、辺りには一人として人がいないようだったが、ふいに後ろから声がした。
「なかなか良い景色ですね」
正介は声に驚いて振りかえり、そこで昨夜の男を認めたのだった。
温泉場ではもうもうとたちこめた湯気でよくわからなかったが、男は老人と呼ばれる歳の割には背筋がしゃんとしている。
身につけている服装からも品のよさが漂っきて、一概に老人と呼ぶには少々気がひけた。
それでも、歩くときに猫背気味になるところが年相応にみえなくもない。
「今朝方はどうも」
男は重い足取りで近づいてきた。


「そうですか。明日、帰られるのですか」
男はいった。
「ええ。そうなんです。一時はどうなることかと思いましたが、ようやく肌がかさぶた状態になってボロボロと剥け始めたものですからもう大丈夫かなと思いまして」
「それはよかったです」
「私ももう少し居たいのは山々なんですが、あいにく私は自営で商売をしていまして、これ以上休むとお客に見放されてしまいそうなので贅沢もいってはいられないんです。とはいっても親から受けついだ商売ですから、二代目はただ潰れない程度にのほほんと構えているだけですが」
正介は身をすくめると、
「ところであなたの方はこれから?」
そう、男に訊いてみた。
「私…ですか」
男はいきなり訊かれて口ごもった。
「私のほうはしばらくここに滞在して、周辺にある神社仏閣でも見学しようと思っております。なにせこの歳になると後は何もやることはないですから、こうやってのんびりと温泉宿に泊まりながら全国の神社仏閣を回るのもいいと思いましてね」
「全国のですか。それもまたいいですね」
「いえね。私もつい最近までこんなことをしようとは思いもよりませんでしたよ。だけど一ヶ月前、全ての物の考え方が変わるようなことが私の身に起きましてね」
いうと男は急に老けこんだかのような面差しをした。
「それは一体?」
正介はそれとなく訊いてみた。
もしかしたら、未明の温泉場でいいたかった事かもしれないと、察したのだ。
けれども男はゆっくりと首を横にふった。
「いや、よしておきましょう。私の身に起きたことを話したところで誰も信じてはくれないでしょうから。私でさえもあれは幻だったのではと思うことがしばしばあります。単なる夢にすぎなかったのではないかと」
正介は男をみた。
その眼は意外にも毅然とした色があったが、同時に深い哀しみもたたえられていた。
とっさに正介は男から視線をそらした。
どうにも男には踏みこめない何かがあるような気がした。
正介は海と空の境を探すように真正面を凝視すると、誰に聞かせるでもなく静かにきりだした。
「世の中には信じられないことが起こりうるということは私も幾つか知っています。だけど私は否定もしなければ肯定もしません。ただ真実を受け入れるのみです」
男は正介をみつめた。
二人はそのまま時が止まったかのように身じろぎ一つしなかった。
まるで動いてしまったら、何かが壊れてしまうかのように。
波の音が沈黙を破るように、荒々しく迫ってきては岩にあたって砕け散っていく。
波しぶきが舞うなかを、二人はひたすら沈黙した。
しばらくその沈黙に身を委ねていたが、ふいに正介が照れくさそうに笑った。
「なんて。偉そうにいいますが」
いうと、正介は海に眼をむけた。
「でも私は自分を含めて、人間ひとりひとりが生きていること自体、一種の神秘だと思っていますので。そうは思いませんか?」
男ははっとしたように正介をみやった。
正介は再び照れくさそうに笑うと、岩場を伝ってゆっくりと歩きだした。


夕食後、正介は部屋の窓をあけて外をみつめていた。
旅館から洩れている明かり以外は完全に暗闇に包まれでいる。
ここからみえる夜の海も例外ではなく、ただ黒い波を漂わせていた。
空には無数の星が煌き、東から月が出るのを今か今かと待ちうけている。
急に寒気がしたので正介は窓を閉めた。
十月も半ばを過ぎると夜が冷える。
これからは日に日に寒くなる一方のようだった。
「少しよろしいですか」
突然、戸のむこう側で微かに人の声がしたので、正介は息を呑んだ。
慌てて戸を開けると、先程の男が立っていた。
「お休みのところ申し訳ありません。少しあなたとお話がしたかったものですから。その、少しだけでいいのです。ほんのいっときの間だけお時間を頂けないでしょうか」
正介は男に頷いた。
「どうぞ中へ。お話、伺いましょう」


夜空に輝く星を尻目に、ようやく月が昇ってきた。
海の波がゆらゆらと揺れ、海面に映る月を変化させている。
闇夜に皓々と輝く月は、真昼のような明るさを与えているようだった。
「さて、何から話してよいものやら」
男は懸命に話の糸口をみいだそうとしていた。
「なんなりと。時間はたっぷりありますから」
聞き役に徹して正介は先をうながした。
男は頷くと、決意したようにきりだした。
「私はご覧の通りの独り身です。けれどもずっと独りだったのではなく、一度だけ結婚もして子供もおりました。今からそう、四十年程前でしょうか」
男はいったん話をきると続けた。
「私が結婚したのは妻の千鶴子ちずこが三十二歳で私が三十五歳のときでした。当時では遅いほうでしたが子供にも恵まれ生活も安定していました。子供は明子あきこといって女の子でした。明子が生まれたときには妻の千鶴子と共にどんなに喜んだことか。私は今でもあの日の事は忘れもいたしません。どんな記憶よりも鮮明でどんな記憶よりも幸せでした。それがあんなことになるなんて誰が思ったでしょう。
あれは確か暑い夏でした。明子が数えでようやく五歳になった頃です。私はいつものように会社に行っておりました。会社といっても小さな所で、人数が少ない為か休みも碌にとれないほど忙しかったと記憶しています。
その日、千鶴子と明子は列車で三十分ほど離れた海に海水浴に行っていたのです。生まれて初めてみた海に明子はどんなにはしゃいだことでしょう。実は私も行くはずでしたが、急に仕事が入ってしまったために二人で行かせたのです。私はのちにこのことをどんなに悔やんだかわかりません。悲劇はその海水浴の帰りの列車で起こりました」







                                        (後篇につづく)


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「当時は確かに列車の脱線事故が頻繁にあった時代でした。だけどまさか妻と娘が巻き込まれるとは思いもよりませんでした。
私がそのことを知ったのは仕事の休憩時間でした。電話で呼び出しがあったのです。受話器に耳を当てたとたん眼の前が真っ白になりました。受話器を握る手の感覚すらもわからなくなるほどで、そんな私を近くにいた人が支えてくれましたが、それでも立っていられなくて床に座りこんでしまったほどです。いま考えてみると少々だらしなくみえますが、その当時うけたショックというのは私をそういった風にしてしまうのに十分でした。
それから葬儀など色々なことを行ったはずなのですが、私には当時の記憶がほとんどといっていいくらいないのです。どういうふうに妻の実家に報せたのか、そして葬儀ではどのようにふるまったのかが記憶からは抜け落ちているのです。私がそのとき考えていたことは、これからどのようにして生きていけばよいかということでした。もはや生きる希望もなくしてしまった私が、一体どのようにして生きていけるでしょうか。
それ以来、私はまるで抜け殻のように生き続けました。そう。生ける屍のように。本当にそういった形容がそのときの私には当てはまっていました。そんな私を心配してか、周囲の人は再婚話を薦めてくれましたが、全て断りました。
だけど、それから二年三年と月日が経つにつれて、私の中で何かが変わってきたのは事実です。それは人生を前向きに生きていこうとする自分なりの意志だったのかもしれませんが」
男は物思いにふけるかのように吐息をつくと、しばらく正介をみつめてから再びきりだした。
「月日はあっという間に過ぎていきました。私もすっかり年老い、妻と娘の記憶も薄れてゆき、あとは死を待つのみの人生が、自分に課せられた使命だと思っておりました」
男は正介をみてうっすらと微笑んだ。
その微笑にはやや自嘲じみたものが含まれていた。
男は気を取りなおしたように口を開いた。
「そのことが起きたのは今から一ヶ月前の雨上がりの静かな夜でした。私は友人の家に遊びに行った帰りで、最終の上りの列車に乗っておりました。日曜日の最終列車ということで、その車両には私の他に人が三人程しかいませんでした。だから車内はとても静かで、ただ列車のゴトンゴトンという音だけが耳につく夜でした……」

        *

「……乗車券を拝見いたします」
静けさを破って車掌が車両に入ってきました。
単調な列車のリズムにうつらうつらしていたので、私はその声に慌てて車掌のほうに視線をむけました。
そこでは、二人連れの男のひとりが、顔に乗せていた山高帽を外し、あくびをしながら車掌に切符を渡しているところでした。
もうひとり髭面の男のほうは切符を探しているのか、ポケットに手を突っ込んでかきまわしています。
私もさっそく背広のポケットに手を伸ばし切符をとりだすと、近づいてくる車掌を気にしながらも、ふと後ろに視線をむけました。
左側の後ろから三席目の窓よりのところに、年の頃は二十代半ばの女性が座っているのをみてとると、やってきた車掌に切符を手渡しました。
窓の外は真っ暗で景色など何もみえませんでしたが、車掌から切符を受けとって、それを背広のポケットにしまいこむと、私はじっとその闇をみつめていました。
すると、そのときです。
いきなり赤ん坊の泣き声が車両に響きわたったのです。
おそらく車掌が入ってきたことで騒がしくなったせいでしょう。
この車両には私を除いて三人しかいないということが判っていたので、すぐにも女性のほうを振り返りました。
実のところ、あの女性に赤ん坊がいるとは思ってもみなかったので、突然の出来事に少々面食らいました。
おそらく膝に乗せていたのでしょう。
案の定、女性は慌てたように赤ん坊をあやしているところでした。
女性は赤ん坊に何かを語り聞かせながら懸命になだめているのですが、なかなか泣きやもうとしません。
それどころか、なだめればなだめるほどますます激しく泣いて、手のつけられない状態になっていくようでした。
私はそれをみて人事ながらハラハラとしたのを覚えています。
というのも、明子が赤ん坊の頃にそれでさんざん苦労したことを思いだしたからです。
そういった私の動作に気づいたらしく、女性がすまなそうに頭を下げます。
私は、どうぞ気にしないでくださいとでもいうように笑いかけました。
女性は私に向かって頭を下げると、再び赤ん坊をあやしました。
車掌がでていってからも、しばらく赤ん坊は泣きつづけましたが、辺りが静かになったせいか徐々におとなしくなったようでした。
私は後ろに乗りだすようにしていた体を座席の背に沈めると、再び窓の外に眼をやりました。
独りで列車に乗っていると、他にやることがなく視線はつい窓の外へと移るものです。
とはいっても変わらず窓の外は暗闇が広がるばかりで、ガラスに映った自分の姿が見えるだけです。
それでも私は自分の姿越しにみえる闇をじっとみつめていました。
あとで考えてみますと、私はこの頃から窓のむこうの闇が気になっていたのかもしれません。
それは暗示というか五感が冴えわたるというか、言葉ではいい表せない奇妙な感覚だったのですが、ともあれ、私はその感覚に従って何もみえない窓の外を凝視しておりました。
そう。
まさにその時でした。
何の前触れもなく列車がスピードを緩めたと思ったら、急に停まったのです。
停まったあとの静けさが辺りを包みます。
けれども駅に着いたらしい気配は一切ありません。
外は変わらず真っ暗闇なのです。
静けさの中で何かしら異変を感じたらしく、また赤ん坊が泣き始めました。
二人連れの男達が何かをいいあっている声も聞こえてきます。
何かがおかしいと感じ始めたのはそのままの状態で五分が経った頃です。
何事が起きたのかと、車掌に聞きにいこうと立ち上がりかけたときでした。
窓の外で何かが動く気配を感じとったのです。
ガラスに映る自分の影では決してありません。
何か白いものが暗闇にみえたのです。
私はよくみようとガラスに顔をくっつけました。
そこでみたのは本当に奇妙な光景でした。
暗闇にぽっかりと白い光がふたつ漂っているのです。
まるでふたつが寄りそっているといった感じでした。
私は眼をこらして白い光を凝視しました。
そしてそこではっきりとみてとったのです。
白い光に包まれて、人がふたり立っているのを。
私は食い入るように二人をみつめました。
光は眩しくて、とても顔形は判断できません。
だけど確かめなくても私にはわかっていたのです。
あれは妻と娘なのだと。
私がそう思ったのには訳があります。
実はこの場所というのは、妻と娘の命を奪ったあの事故が起きた現場だったからです。
私は慌てて席を立つとデッキにむかいました。
そんな私を、赤ん坊を抱いた女性と男二人は怪訝そうに眼で追います。
私はデッキにでると、手動式のドアを一気に開け放って、手すりを頼りに地面へと降りたちました。
真っ暗な地面を踏みしめ、すぐにも真正面を見据えました。
そこには変わらず白い光があります。
私はおそるおそる足を踏みだしました。
とにかく近くによって確かめたかったのです。
「お客さん!」
ふいに声がして振り返りました。
みると車掌がデッキから身を乗りだすようにして手招きしています。
「お客さん、危ないですからこちらに戻ってきてください」
けれども私は車掌を無視して歩きだしました。
そんなことよりもやるべきことがあったのです。
しばらくすると、後ろで列車が走りだしたのがそれとなく伝わってきました。
私は構わずに、前方で寄りそうように立っている二人に近づきました。
「千鶴子、明子」
私は二人の名を呼びながら走りだしました。
二人との再会は、もう何者にも邪魔できないはずでした。
私は走りました。
そう、走っていたのです。
なのに、どうしたことか二人との距離はどんどん離れていきます。
必死になって二人の後を追っているのですが一向に追いつかないのです。
私は夢中になって走りました。
今にも消えそうに遠ざかっていく二人を追いながら、二人の名を交互に叫び、右も左もわからない暗闇をどこまでもひたすら走っていたのです。
恐くはありませんでした。
ええ。
恐くはなかったのです。
だけどその意思に反して私の体は震え、汗でびっしょりになっていました。
そしておそらく私は泣いていた──
どのくらいの時間、彷徨ったのかは定かではありません。
気がつくと私は駅のベンチで寝ておりました。
空が白み始めたころでしたから、朝が来たということはそれとなくわかりました。
私はここで一夜を過ごしたということなのでしょう。
つまり昨日のことは夢だったのです。
それにしても奇妙な夢でした。
だけど束の間、妻と娘に逢えたのですから、よくよく考えてみると、とても幸せな夢だったのかもしれません。
あれだけ恐怖を感じていたのにもかかわらず、なぜか終始、幸せな気分だったのですから。
だからそのことを知ったのは、家に帰ってかなり経った夕方近くでした。
夕刊の一面にでておりました。
列車の脱線事故です。
死亡した人の顔写真をみて、私は更に衝撃をうけました。
男の二人連れと、母親と赤ん坊、それに車掌です。
そうです。
昨夜、私と一緒に乗っていた人たちの顔が、そこにずらりと並んでいたのです。
なぜか私の乗っていた車両は全壊状態だったのです。
私は新聞を手に、戦慄を禁じえませんでした。
ということは、昨夜のことは現実ということになります。
つまり、私がみた妻と娘は現実のことだったのです。
それだけならまだしも二人は私を救ってくれた。
こんなにも老いた私を救ってくれたのです。
私は思いました。
もし、あのとき私があのまま列車に乗っていたらと。
あの時、窓の外に妻と娘をみつけなかったとしたらと。
私は考えました。
これから先どうやって生きていくのかを。
まるで夢の出来事みたいに、一人だけ生き残ってしまった自分をどうすればいいのかを。
それは実際、簡単なことではありませんでした。
しかし、そのときは何かを考えられずにはいられなかったのです。
それから一週間ほどたってから、私はようやく二人の墓参りに行きました。
私はそこで長い間、話しこみ、今までの思いのたけを語りました。
傍目からどう思われようと関係ありませんでした。
ええ。
それは思ったよりも幸せなひと時でしたから。
私は墓を去る際に、二人に有難うをいいました。
その時、どこからともなく笑い声が聞こえてきたのはやはり私の空耳だったのでしょうか。
だけど私はその空耳を胸にとめて、墓を後にしました。

        *

「──長い話で退屈だったでしょう」
言葉とは裏腹に、どことなくほっとしたように男はいった。
この話を人に聞いてもらった安堵もあるような気もした。
「いいえ。とんでもない」
正介は首を振った。
男は改めて正介の眼をみつめていった。
「信じようと信じまいと、これが一ヶ月前に私の身に起きた全てのことです」
「私もそう受けとめています」
男は静かに笑うと、すぐにも立ちあがった。
そういえば、お互い名前も名乗らなかった。
男の背中を見送りながら、正介は今更ながら気づいた。
だけど、もう逢うこともないだろう。







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